宮島を訪れる人々に愛され続ける「もみじ饅頭」。その美しいもみじの形と優しい甘さは、今や広島を代表する銘菓として全国に知られています。しかし、この愛らしいお菓子がいつ、どのようにして生まれたのか、その歴史的由来をご存知でしょうか。
もみじ饅頭は明治39年(1906年)、宮島の和菓子職人・高津常助によって誕生しました。老舗旅館「岩惣」の女将からの依頼により「紅葉形焼饅頭」として完成したこの銘菓は、初代内閣総理大臣・伊藤博文との興味深い逸話も残されており、120年近い歴史の中で宮島の名物から広島県全体、そして全国的な銘菓へと発展を遂げました。この記事では、もみじ饅頭の誕生から現代に至るまでの歴史的変遷を詳しく探っていきます。

もみじ饅頭誕生の歴史的経緯
明治時代の宮島と観光の発展
もみじ饅頭が誕生した明治時代後期、宮島は既に日本を代表する観光地として多くの人々を魅了していました。厳島神社への参詣と紅葉狩りを目的とした観光客が年々増加し、島内の宿泊施設や土産物の需要も高まっていたのです。
この時代背景の中で重要な役割を果たしたのが、安政元年(1854年)創業の老舗旅館「岩惣」でした。紅葉谷公園の入り口に位置するこの旅館は、皇族や政府要人、文人墨客が宿泊する格式高い宿として知られており、夏目漱石、伊藤博文、大韓帝国皇太子など、時代を代表する著名人が数多く投宿していました。
岩惣の4代目女将である栄子は、「岩惣でしか味わえない特別なお茶菓子をお客様にお出ししたい」という想いを抱いていました。当時の高級旅館では、宿独自の茶菓子でおもてなしをすることが重要なサービスの一つとされており、女将の想いは時代の要請でもあったのです。
和菓子職人・高津常助への依頼
岩惣に和菓子を納入していたのが、宮島で腕を振るっていた和菓子職人・高津常助でした。常助は明治後期の宮島において、確かな技術と創意工夫で知られた職人として信頼を集めていました。
明治39年(1906年)頃、女将の栄子が高津常助に特別な依頼をしました。「大切なお客様への手土産に、紅葉谷の名にふさわしい菓子が作れないだろうか」というものでした。宮島の名所である紅葉谷にちなんだ、この地でしか味わえない特別な菓子の創作を求めたのです。
この依頼を受けた高津常助は、試行錯誤を重ねながら新しい菓子の開発に取り組みました。当時としては大変ハイカラだった長崎産の蜂蜜、国産の卵と牛乳を使用したカステラ生地を考案し、その中に上質なこし餡を包み込む製法を編み出しました。そして最も重要な特徴として、もみじの葉を忠実に再現した美しい焼き型を制作したのです。

「紅葉形焼饅頭」の完成と商標登録
高津常助の努力により完成したのが「紅葉形焼饅頭」でした。これが現在のもみじ饅頭の原型となった記念すべき銘菓です。もみじの葉脈まで精巧に表現された美しい形状と、カステラ生地の優しい甘さ、上質なこし餡の組み合わせは、岩惣の宿泊客に大変好評を博しました。
常助は自らの創作に確信を持ち、明治43年(1910年)7月18日に「もみじ饅頭」として商標登録を行いました。この商標登録証は現在も常助の孫の元に大切に保管されており、当時使用していた焼き型と共に、もみじ饅頭誕生の歴史を物語る貴重な資料となっています。
興味深いことに、初期の焼き型は現在のものとやや異なり、「7つの切れ込みのある葉に短い葉柄があり、二頭の鹿を描いた」という非常に凝った意匠でした。これは宮島の鹿との関連性も表現した、芸術性の高いデザインだったのです。
伊藤博文との関わりと文化的背景
初代内閣総理大臣・伊藤博文の宮島愛
もみじ饅頭の誕生には、初代内閣総理大臣・伊藤博文との興味深い逸話が残されています。伊藤博文は大の宮島好きとして知られ、特に弥山の山頂からの眺望を愛し、「日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり」という言葉を残しています。
伊藤博文は岩惣を常宿とし、頻繁に宮島を訪れていました。ある時、彼が紅葉谷の茶屋で休憩していた際、お茶を運んできた娘の手を見て「なんと可愛らしい、もみじのような手であろう。焼いて食うたらさぞ美味しかろう」と冗談を言ったという話が伝えられています。
この話を聞いた岩惣の中居が女将に伝え、それがもみじ饅頭創作のヒントになったという説があります。この逸話は諸説ある中の一つですが、伊藤博文の人柄や当時の時代背景を考慮すると、十分にありえる話として多くの人に受け入れられています。
明治時代の観光文化と土産菓子の役割
明治時代、日本の観光文化は大きな変革期を迎えていました。鉄道網の整備により遠方への旅行が容易になり、観光地では地域独自の土産物が重要な産業として発展していたのです。
もみじ饅頭は、このような時代背景の中で誕生した先駆的な観光土産菓子でした。地域の自然美(紅葉)をモチーフとし、その土地でしか味わえない特別感を演出する手法は、現代の観光マーケティングにも通じる優れたアイデアだったといえます。
また、カステラ生地という当時としてはモダンな要素を取り入れながら、日本の伝統的な餡を組み合わせた点も注目に値します。これは明治時代の文明開化の精神を菓子に体現したものとして、時代の象徴的な意味も持っていました。

名物への発展過程と技術革新
大正・昭和初期の普及と製法の確立
もみじ饅頭は誕生から間もなく宮島の名物として定着し、島を訪れる観光客の間で評判になりました。高津常助が独占をしなかったため、他の菓子店でも製造されるようになり、それぞれが独自の工夫を凝らして品質向上に努めました。
大正時代から昭和初期にかけて、もみじ饅頭の製法はさらに洗練されていきました。原料の選定、生地の配合、焼き加減など、各店が秘伝の技術を開発し、微妙な味の違いを生み出すようになったのです。
この時期の特徴は、すべて手作業による製造でした。職人が一つ一つ手で焼き型を押さえ、火加減を調整しながら丁寧に焼き上げる手法は、現在でも一部の店舗で受け継がれている伝統的な製法です。
戦後復興と機械化の導入
第二次世界大戦後、もみじ饅頭の製造は大きな転換期を迎えました。1960年代に広島市内の業者が「もみじ饅頭焼成機」を開発し、機械による大量生産が可能になったのです。
この焼成機は、焼き型を次々に回転させる仕組みで、一定の品質を保ちながら効率的にもみじ饅頭を製造できました。現在の焼成機はガス加熱式が主流で、多いものでは1時間あたり2500個の製造能力を持っています。
機械化の導入により、もみじ饅頭の供給量が飛躍的に増大し、価格も安定しました。これにより、宮島の土産物としてだけでなく、広島県全体を代表する銘菓として全国に広がる基盤が整ったのです。
昭和後期の全国的ブームと多様化
昭和後期、もみじ饅頭は全国的な知名度を獲得する大きなきっかけを得ました。漫才コンビB&Bの島田洋七さんのギャグ「もみじまんじゅう!」により、一気に全国的に有名になったのです。このギャグの影響で、もみじ饅頭の知名度は飛躍的に向上しました。
同時期から、従来のこし餡だけでなく、つぶあん、抹茶あん、チーズ、チョコレートなど、様々な味のバリエーションが開発されるようになりました。平成に入ると、生地にも変化が加えられ、「生もみじ」「揚げもみじ」など、新しい製法による商品も登場しています。

現代に受け継がれるもみじ饅頭文化の価値
もみじ饅頭は単なる土産菓子を超えて、広島県の文化的アイデンティティの一部となっています。2009年に朝日新聞が実施した「日本一のまんじゅうは?」のアンケート調査では全国1位を獲得し、各種の全国お土産ランキングでも常に上位にランクインしています。
現在でも宮島島内や広島県内には多数のもみじ饅頭製造・販売店があり、それぞれが独自の特色を打ち出しています。元祖である高津堂は、常助の孫である加藤宏明氏によって2009年に復活し、明治時代の焼き型を使った「元祖もみぢ饅頭」を手焼きで製造販売しています。
また、宮島島内には手焼き体験ができる施設もあり、観光客が自分でもみじ饅頭を作る体験も人気を集めています。これにより、もみじ饅頭は「買う」だけでなく「作る」楽しみも提供する観光コンテンツとして発展しています。
120年近い歴史を持つもみじ饅頭は、伝統を守りながらも時代に応じて進化を続け、現代においても多くの人々に愛され続ける銘菓として、その価値を保ち続けているのです。
よくある質問
もみじ饅頭はいつ誕生したのですか?
明治39年(1906年)に和菓子職人の高津常助によって「紅葉形焼饅頭」として誕生しました。明治43年(1910年)には商標登録も行われており、今年で誕生から約120年の歴史を持つ銘菓です。
誰がもみじ饅頭を最初に作ったのですか?
高津常助という宮島の和菓子職人が最初に作りました。岩惣旅館の女将からの依頼により、紅葉谷の名にふさわしい菓子として開発し、「紅葉形焼饅頭」として完成させました。
伊藤博文はもみじ饅頭の誕生に関わったのですか?
直接的な関わりではありませんが、発案のきっかけとなった逸話が残されています。伊藤博文が茶屋の娘の手を見て「もみじのような可愛い手を食べてしまいたい」と冗談を言ったのがヒントになったという説があります。
元祖のもみじ饅頭は現在でも食べられますか?
はい、高津堂として2009年に復活し、宮島口で営業しています。創始者の孫が明治時代の焼き型を使って手焼きで製造しており、当時の製法を再現した「元祖もみぢ饅頭」を味わうことができます。
なぜ複数のメーカーが同じ名前で販売できるのですか?
高津常助が独占をしなかったためです。そのため現在では多数のメーカーが「もみじ饅頭」の名称で製造・販売しており、それぞれが独自の味や製法で競い合っています。
手作りと機械製造の違いはありますか?
手作りはしっとりとした独特の食感が特徴です。1960年代に機械化が進みましたが、現在でも高津堂などの一部店舗では手焼きを続けており、機械製造とは異なる風味を楽しむことができます。
もみじ饅頭が全国的に有名になったきっかけは?
昭和後期の漫才コンビB&Bの島田洋七さんのギャグ「もみじまんじゅう!」が大きなきっかけとなりました。また、山陽新幹線の開通により広島への観光客が増加したことも普及に貢献しています。
まとめ
もみじ饅頭の歴史的由来は、明治39年(1906年)に和菓子職人・高津常助が岩惣旅館の女将からの依頼により創作した「紅葉形焼饅頭」に始まります。初代内閣総理大臣・伊藤博文との興味深い逸話も残されており、宮島の紅葉という自然美をモチーフとした先駆的な観光土産菓子として誕生しました。
その後、大正・昭和時代を通じて宮島の名物として定着し、戦後の機械化により大量生産が可能となって広島県全体の銘菓へと発展しました。昭和後期のテレビの影響で全国的な知名度を獲得し、現在では日本を代表する銘菓の一つとして多くの人に愛されています。高津常助が独占をしなかったため、現在でも多数のメーカーが独自の工夫を凝らして製造しており、伝統を守りながらも時代に応じて進化を続けています。120年近い歴史を持つもみじ饅頭は、地域文化と観光産業が融合した成功例として、現代においてもその価値を保ち続けているのです。