厳島神社の景観を特徴づける回廊と能舞台は、海上に展開する芸能空間として独自の発展を遂げてきました。平安時代の寝殿造の影響を受けた回廊は社殿群を結び、江戸時代に整備された能舞台は海を舞台背景とする唯一無二の舞台となっています。
本記事では、これらの建築がどのように生まれ、変遷してきたのかを、建築史の視点から詳しく解説します。海上建築ならではの工夫と、芸能を奉納する場としての機能の両面から、厳島神社の回廊・能舞台の歴史をたどります。
回廊の成立と平清盛の構想
厳島神社の回廊は、平清盛が仁安3年(1168年)に造営した社殿群の中核を成す建築です。清盛は平安貴族の邸宅様式である寝殿造を神社建築に応用し、瀬戸内海を「池」に、社殿を「寝殿」に見立てる独創的な発想で設計しました。
寝殿造では、主人が居住する寝殿を中心に、東西に対屋(たいのや)という付属建物を配置し、それらを渡殿(わたどの)と呼ばれる回廊で結ぶ構成が基本となります。厳島神社では本社と客神社を回廊が結び、平安貴族の邸宅が持つ優雅な構成を海上に再現しています。
清盛が造営した回廊は建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の大火災で焼失しましたが、その後の仁治年間(1240-1243年)以降に清盛時代の配置構成と建築様式を忠実に踏襲して再建されました。現在の回廊は、この鎌倉時代の再建時の姿を基本としながら、室町時代末期から桃山時代にかけて順次整備されたものです。
回廊の建築技術と海上建築の工夫
回廊の規模と構造
東西の回廊は総延長約275メートルに及びます。東廻廊は45間、西廻廊は62間からなり、幅約4メートルの広々とした通路が海上の各建物と陸地を結んでいます。柱の間隔は8尺(約2.4メートル)で統一され、その間の床板は1間あたり8枚敷かれています。
回廊は一般の神社のように敷地を四角く区切るものではなく、海上の各建物と陸地とを結ぶ渡り廊下の役割を果たしています。西廻廊は地上部から発して海上に建つ能舞台を囲むように4回直角に折れた後、本社祓殿(はらいでん)西面に接続します。東廻廊は客神社の祓殿と拝殿の間を通り、3回直角に折れた後、本社祓殿東面に接続する構成です。
海上建築ならではの技術
回廊の床板には、高潮時の水圧を逃がすため意図的に隙間が設けられています。大潮時には回廊が冠水することもありますが、この隙間により床板が外れるのを防ぎ、水の出入りで水圧を緩める仕組みとなっています。
柱は海底に礎石を据え、その上に杭(束)を立て、板床を張る構造です。木製の杭は満潮時に海水に浸かるため腐食しやすく、定期的に点検を行い、腐食が判明した場合は「根継ぎ(ねつぎ)」と呼ばれる技法で修復します。柱の上下で色が異なるのは、海に浸かって腐った根元を切って取り替えた跡であり、海上建築ならではの維持の工夫を示しています。
回廊の屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で葺かれています。檜皮葺とは樹齢70年以上の檜の立ち木から採取した樹皮を材料とする日本固有の技法で、平安時代以降、最も格式の高い屋根葺き手法とされてきました。優美な曲線美と軒の深い躍動感あふれる構造が、海上に浮かぶ社殿群の美しさを一層引き立てています。
能舞台の誕生と変遷
戦国時代の能奉納と舞台の起源
厳島神社で能が奉納されるようになったのは、戦国時代の永禄11年(1568年)のことです。毛利元就の命により、観世流の観世太夫(かんぜだゆう)が厳島神社で能を演じました。『房顕記(ぼうけんき)』には「海の中に舞台を張らせて9番の演能があり、その後、棚守房顕の屋敷で舞台を張らせ11番を演じた」と記されており、この時の能舞台は常設ではなく、仮設で臨時に作られたものでした。
毛利元就は弘治元年(1555年)の厳島の戦いで陶軍に勝利した後、神の島を戦場にしたことを悔いて大鳥居の再建や社殿の整備を行いました。能の奉納もこうした毛利氏による厳島神社への奉仕の一環として位置づけられます。
福島正則による能舞台の寄進
常設の能舞台が建てられたのは、慶長10年(1605年)のことです。関ヶ原の戦い後に安芸国の藩主となった福島正則が能舞台を寄進しました。創建当初は宮島島内の樹木を集めて造営されたため、ほとんど近くに生えていた松の木が用いられました。
福島正則は能舞台以外にも平家納経の整備など宮島の文化を重視し、援助を行っています。力頼みの武将というイメージがありますが、実際には実務に長けた知性派だったとされます。
浅野氏による再建と現在の姿
福島正則が寄進した能舞台は、松材を用いたため50年ほどで腐朽が顕著となりました。延宝8年(1680年)、広島藩主の浅野綱長(あさのつななが)によって現在の能舞台と橋掛(はしがかり)および楽屋が造立されました。
その後も台風や高潮による被害を受け、平成3年(1991年)の台風19号では能舞台が倒壊しましたが、創建当初の殿舎の姿を忠実に復元する形で平成6年(1994年)に再建されています。能舞台は明治32年(1899年)に国の重要文化財に指定されており、日本で5つしかない重要文化財指定の能舞台の一つです。
能舞台の建築的特徴と音響効果
海上に建つ唯一の能舞台
厳島神社の能舞台は国内唯一の海上に造られた能舞台です。西廻廊から見ることができ、桁行1間、梁間1間、一重、切妻造、妻入りの形式で、能舞台は檜皮葺ですが、橋掛と能楽屋は杮葺(こけらぶき)となっています。
舞台の四辺は約5メートルで、海上という立地のため高潮や浮力に耐えられる構造となっています。橋掛と呼ばれる高欄(こうらん)付きの廊下が能舞台と能楽屋(楽屋)を結び、役者はこの橋掛から登場します。舞台背景の鏡板(かがみいた)には老松(松の木)が描かれており、これは能舞台を造営する際の定型の一つです。
独特の音響構造
一般の能舞台では、足拍子(床を踏むこと)の響きを良くするために舞台の床下に共鳴用の甕(かめ)を設置しますが、厳島神社の能舞台は海上に造営されているため甕を設置できません。そのため、床板に弾力を持たせることで音響効果を最大限に演出する工夫が施されています。
さらに特筆すべきは、潮の満ち引きの度合いによって音の響きが変わるという点です。満潮時と干潮時では床下の空間の状態が異なるため、同じ足拍子でも音色が変化します。この海上建築ならではの特性は、厳島神社の能舞台を「唯一無二の能舞台」たらしめる大きな要素となっています。
芸能空間としての機能と祭典
厳島神社では年に約10回の祭典の後に舞楽が披露されます。平清盛によって大阪・四天王寺から伝えられたという「蘭陵王(らんりょうおう)」「納曽利(なそり)」などが現在も伝わっており、大鳥居と海を背後にしながら披露されるきらびやかな装束の舞楽は、平安時代の雅を今に伝えています。
4月15日から18日に催される桃花祭神能では能や狂言を鑑賞することができます。能舞台と西廻廊の間に仮設の桟敷が設けられ、正式な五番立で演能が行われます。初日と2日目には最初に翁が舞われ、間に狂言が入るという江戸時代からの本式な演能形式が守られています。
秋には厳島観月能が催され、潮が満ちていく月明かりの中で能が舞われます。海を舞台背景とし、潮の満ち引きとともに変化する景観の中で演じられる能は、厳島神社ならではの芸能空間体験となっています。
よくある質問
回廊の長さはどのくらいですか?
東西の回廊を合わせて総延長約275メートルあります。東廻廊は45間、西廻廊は62間からなり、柱の間隔は8尺(約2.4メートル)で統一されています。幅は約4メートルあり、広々とした通路となっています。
能舞台はいつ建てられたのですか?
現在の能舞台は延宝8年(1680年)に広島藩主の浅野綱長によって造立されたものです。最初の常設能舞台は慶長10年(1605年)に福島正則が寄進しましたが、50年ほどで腐朽したため、浅野氏が再建しました。平成3年(1991年)の台風で倒壊しましたが、平成6年(1994年)に復元されています。
回廊の床板に隙間があるのはなぜですか?
高潮時の水圧を逃がすために意図的に隙間が設けられています。大潮時には回廊が冠水することもありますが、この隙間により床板が外れるのを防ぎ、水の出入りで水圧を緩める仕組みとなっています。海上建築ならではの工夫です。
厳島神社の能舞台の特徴は何ですか?
国内唯一の海上に建つ能舞台で、重要文化財に指定されています。通常の能舞台にある共鳴用の甕を設置できないため、床板に弾力を持たせて音響効果を出す工夫が施されています。また、潮の満ち引きによって音の響きが変わるという独特の特性を持っています。
能舞台で公演を見ることはできますか?
4月15日から18日の桃花祭神能で能や狂言を鑑賞できます。能舞台と西廻廊の間に仮設の桟敷が設けられ、正式な五番立での演能が行われます。秋には厳島観月能も催され、月明かりの中で能が舞われます。
まとめ
厳島神社の回廊と能舞台は、平安時代の寝殿造から江戸時代の芸能奉納まで、長い歴史を経て形成された芸能空間です。回廊は平清盛が構想した海上の寝殿造を体現し、能舞台は戦国時代の毛利氏、江戸時代の福島氏・浅野氏による文化的な奉仕を通じて整備されました。
海上建築ならではの技術的工夫と、芸能を奉納する場としての機能が融合した回廊・能舞台は、厳島神社の景観と文化的価値を支える重要な要素となっています。現地を訪れる際は、これらの建築が持つ歴史的背景と技術的特徴に注目してみてください。