平安時代末期、一人の武士が厳島神社を大規模に造営し、それによって日本の歴史が大きく動き始めました。その武士こそが、武家として初めて太政大臣にまで上り詰めた平清盛です。
平清盛は仁安3年(1168年)、厳島神社を現在見られるような壮大な海上社殿へと造営しました。これは単なる神社の修復ではなく、瀬戸内海の制海権を掌握し、日宋貿易で莫大な富を得た平家の力を象徴する一大事業でした。清盛が宮島を選んだ背景には、軍事的戦略、宗教的信仰、そして政治的野心が複雑に絡み合っていたのです。

平清盛と厳島神社の歴史的経緯
安芸守就任と宮島との出会い
平清盛が厳島神社との深い関係を築き始めたのは、久安2年(1146年)、29歳で安芸守に任命されたことがきっかけでした。安芸国は現在の広島県西部にあたり、瀬戸内海の海上交通の要衝でした。この地方官としての任命が、清盛の人生と平家一門の運命を大きく変えることになります。
安芸守として瀬戸内海の制海権を手にした清盛は、海上交易から莫大な富を得るようになりました。特に日宋貿易の拠点として瀬戸内海は極めて重要で、清盛はこの海域を実効支配することで、平家の経済基盤を飛躍的に拡大させたのです。宋からもたらされる銅銭、陶磁器、書籍、薬品などの貿易品は、当時の日本に大きな影響を与えました。
『平家物語』によれば、清盛は高野山に登った際、ある僧から「厳島神社を造営すれば、必ず位階を極めるであろう」という神秘的なお告げを受けたと伝えられています。この夢告は、清盛の厚い信仰心と結びつき、厳島神社への崇敬を決定的なものにしました。
永暦3年の初参詣と信仰の深まり
清盛が厳島神社に初めて参詣したのは、永暦3年(1160年)8月のことでした。この年は平治の乱で源義朝を破り、平家の覇権が確立した直後です。清盛は正三位に昇り、公卿の仲間入りを果たしました。激動の時期にあって、清盛は厳島の神に勝利の感謝を捧げたのです。
この初参詣以降、清盛は厳島神社への崇敬をさらに深めていきます。神主の佐伯景弘との結びつきも強固になり、平家一門と厳島神社の関係は特別なものになっていきました。清盛は年に数回、宮島を訪れるようになり、参詣の際には管弦の遊びを奉納するなど、京の雅な文化を宮島にもたらしました。

長寛2年の平家納経奉納
清盛の厳島信仰の頂点とも言える事業が、長寛2年(1164年)9月に行われた平家納経の奉納でした。これは清盛自らが筆をとった願文に始まり、平重盛、平頼盛、平教盛など平家一門32人がそれぞれ一巻ずつ分担して写経した、法華経28品と開結経、阿弥陀経、般若心経を含む全33巻からなる装飾経です。
平家納経の装飾は当代最高の技術を結集したもので、金銀箔が散りばめられ、極彩色の下絵や文様が施されています。表紙、見返し、料紙、金具、紐、軸など、すべての部材に平家の財力と美意識が注ぎ込まれました。清盛が血を混ぜた墨で写経したという伝承もあり、その信仰の深さがうかがえます。
この33巻という数は、厳島の本地仏である十一面観音の三十三応現身の思想に基づいています。清盛は平家一門の現世と来世にわたる繁栄を祈願し、厳島の神仏に最高の供養を捧げたのです。平家納経は現在国宝に指定され、日本の装飾経の最高傑作として世界的に高く評価されています。
社殿造営の特徴と技術的詳細
仁安3年の大規模造営
清盛が厳島神社を現在の姿に造営したのは、仁安3年(1168年)のことでした。この年、清盛は51歳で、すでに従一位太政大臣という日本最高の地位に就いていました。武士として初めて到達したこの頂点は、まさに厳島の神のご加護によるものと清盛は確信していたのです。
清盛による造営は、それまでの小規模な社殿を、現在見られるような壮大な海上社殿へと生まれ変わらせる大事業でした。社殿の規模は以前の数倍に拡大され、本社本殿、幣殿、拝殿、祓殿が一体となった荘厳な建築群が完成しました。東西の回廊は全長約275メートルに及び、海上に延びる朱塗りの回廊は、まるで龍が海面を這うような壮観な景観を生み出しました。
造営事業は神主の佐伯景弘が実務を担当しましたが、清盛自身も頻繁に宮島を訪れて進捗を確認し、京都から一流の工匠を派遣しました。莫大な費用は平家の日宋貿易による富で賄われ、当時の最高の技術と材料が投入されたのです。


寝殿造り様式の採用
清盛が厳島神社の造営で採用した最大の特徴が、平安貴族の邸宅建築様式である寝殿造りを神社建築に取り入れたことでした。これは当時としては画期的な試みで、神聖な神社に世俗の貴族建築様式を用いるという大胆な発想でした。
寝殿造りの特徴は、左右対称の配置、回廊で結ばれた複数の建物、そして自然との一体感を重視した開放的な構造にあります。厳島神社では、中央の本社を中心に、左右に客神社や能舞台が配置され、これらを回廊が優雅に結んでいます。床板には隙間が設けられ、高潮時には海水が床下を自由に流れる仕組みになっており、台風などの自然災害にも耐えられる設計です。
寝殿造りの採用は、単なる建築様式の選択ではなく、京の都の洗練された文化を宮島に移植するという清盛の文化戦略でもありました。厳島神社は平家の氏神として、平家の権威と文化的洗練を体現する場となったのです。
管弦祭と京文化の伝播
清盛は社殿の造営だけでなく、京の雅な文化を宮島に伝えることにも力を注ぎました。その代表が管弦祭です。これは都で行われていた貴族の管弦の遊びを神事として厳島神社に定着させたもので、清盛が始めたとされています。
管弦祭では、管弦船(御座船)に管弦の楽人が乗り込み、海上で雅楽を奏でながら対岸の地御前神社へ渡御します。月明かりの海上に響き渡る笙、篳篥、琵琶の音色は、都の貴族文化の粋を宮島にもたらしました。清盛は参詣の際、自ら松明で社殿を照らし出し、管弦の遊びを楽しんだと伝えられています。
また、清盛は大阪の四天王寺から舞楽を伝え、蘭陵王や納曽利などの演目が現在も厳島神社で継承されています。豪華な装束をまとった舞楽が、海を背景に演じられる光景は、平安文化の優美さを現代に伝える貴重な無形の文化財となっています。
平家と厳島信仰の影響と歴史的意義
平家の氏神としての位置づけ
清盛による大造営以降、厳島神社は平家一門の氏神として特別な地位を占めるようになりました。平家の武将たちは重要な合戦の前に必ず厳島神社に参詣し、武運長久を祈願しました。また、出世や慶事があるたびに感謝の奉納を行い、平家と厳島の結びつきは年を追うごとに深まっていきました。
平家一門の厳島崇敬は、清盛の息子である平重盛にも受け継がれました。重盛は父以上に信仰深く、厳島神社に多くの宝物を奉納しています。平家納経の筆写にも参加し、平家の繁栄が厳島の神のご加護によるものという信仰を一門全体で共有していました。
厳島神社は平家にとって、単なる信仰の対象ではなく、瀬戸内海の制海権と日宋貿易という実利的な側面でも重要な拠点でした。宮島を中心とする海域を掌握することは、経済的にも軍事的にも平家の覇権を支える基盤だったのです。

日宋貿易と瀬戸内海の制海権
清盛が厳島神社を重視した背景には、日宋貿易という巨大な経済的利益がありました。清盛は大輪田泊(現在の神戸港)を整備し、宋との貿易を積極的に推進しました。瀬戸内海は日本と大陸を結ぶ海上交通の大動脈であり、その要衝に位置する宮島は、貿易ルートの安全を祈願する上で最適な聖地でした。
宋から輸入される銅銭(宋銭)は、日本国内で通貨として流通し、貨幣経済の発展に大きく寄与しました。清盛はこの宋銭を大量に輸入し、平家の経済力を飛躍的に高めました。また、陶磁器、絹織物、香料、薬品などの高級品も貿易によってもたらされ、平家の富と権威を象徴する品々として用いられました。
厳島神社への崇敬は、海上交通の安全と貿易の成功を祈願する実利的な側面も持っていました。清盛は航海の安全を厳島の神に託し、貿易による富の一部を神社への奉納という形で還元しました。この経済と信仰の循環が、平家の繁栄と厳島神社の発展を支えたのです。
平家滅亡後の厳島神社
治承・寿永の乱(源平合戦)により、平家は壇ノ浦の戦いで滅亡しました。しかし、清盛が造営した厳島神社は、平家滅亡後も重要な神社として存続します。源頼朝は平家の遺産を否定するのではなく、厳島神社の価値を認め、保護を続けました。これは清盛が創り上げた厳島神社の文化的価値が、政治的対立を超えて認められていたことを示しています。
鎌倉時代には、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で社殿の全てが焼失しましたが、その都度再建されました。現在残る社殿の多くは、仁治年間(1240年-1243年)以降に造営されたものです。しかし、その基本的な配置と様式は清盛の時代の構造を踏襲しており、清盛の遺産は形を変えながら受け継がれています。
戦国時代には、毛利元就が厳島の戦いで大勝利を収め、その後厳島神社の大規模な修復を行いました。江戸時代には浅野氏が広島藩主として厳島神社を保護し、明治以降も国家的な保護を受けて現在に至っています。清盛が始めた厳島崇敬の伝統は、時代を超えて継承されてきたのです。
現代に受け継がれる清盛の遺産の価値
平清盛が1168年に造営した厳島神社の海上社殿は、850年以上の時を経て、今も世界中の人々を魅了し続けています。平成8年(1996年)12月、厳島神社はユネスコの世界文化遺産に登録されました。これは清盛が創造した建築美と文化的価値が、国際的に認められたことを意味します。
清盛の遺産は建築だけではありません。管弦祭や舞楽といった無形の文化財も、清盛が京から宮島に伝えた貴重な伝統として現在も継承されています。毎年旧暦6月17日に行われる管弦祭では、千年前と変わらぬ雅楽の音色が瀬戸内海に響き渡り、平安時代の雅な文化を現代に伝えています。
平家納経をはじめとする清盛ゆかりの宝物は、現在厳島神社宝物館で大切に保管されています。これらの国宝・重要文化財は、平家の栄華と清盛の美意識を今に伝える貴重な歴史資料です。平清盛という一人の武士が、信仰と政治、経済と文化を融合させて創り上げた厳島神社の世界は、日本文化の多様性と奥深さを象徴する存在として、これからも守り伝えられていくでしょう。
よくある質問
平清盛はなぜ厳島神社を造営したのですか?
清盛が厳島神社を造営した理由は複数あります。第一に、瀬戸内海の制海権と日宋貿易の拠点として宮島が重要だったこと。第二に、高野山での夢告により厳島の神を篤く信仰するようになったこと。第三に、平家の氏神として一門の結束を強める象徴的な場所が必要だったことです。これらの軍事的、経済的、宗教的、政治的な理由が複合的に働いていました。
平清盛が造営した社殿は現在も残っていますか?
残念ながら、清盛が1168年に造営した社殿は、鎌倉時代の2度の火災(1207年と1223年)で全て焼失しました。現在の社殿は仁治年間(1240-1243年)以降に再建されたものです。ただし、基本的な配置と様式は清盛の時代の構造を踏襲しており、清盛の構想した海上社殿の姿を今に伝えています。
平家納経は実際に見ることができますか?
平家納経の原本は国宝で、通常は厳島神社宝物館にレプリカが展示されています。原本は年に2回程度、秋と春の特別公開時に限り実物を見ることができます。また、数年に一度、東京国立博物館や京都国立博物館などの特別展に出展されることもあります。事前に公開情報を確認することをおすすめします。
平清盛と厳島神社の関係はいつから始まったのですか?
清盛と厳島神社の関係は、久安2年(1146年)に安芸守に任命された時から始まりました。初めて厳島神社に参詣したのは永暦3年(1160年)8月です。その後、長寛2年(1164年)に平家納経を奉納し、仁安3年(1168年)に大規模な社殿造営を完成させました。約22年間にわたり、清盛は厳島神社との関係を深めていったのです。
清盛が宮島に伝えた京の文化とは何ですか?
清盛が宮島に伝えた京の文化には、管弦祭(貴族の管弦の遊びを神事化したもの)、舞楽(蘭陵王や納曽利など大阪四天王寺から伝えられた)、寝殿造りの建築様式、そして装飾経の技術などがあります。これらは平安貴族文化の粋を集めたもので、清盛による文化的な東西交流の成果と言えます。
厳島神社は平家滅亡後どうなりましたか?
平家滅亡後も、厳島神社は源氏をはじめ歴代の権力者から保護されました。源頼朝は平家の遺産を否定せず、厳島神社の価値を認めて保護を続けました。戦国時代には毛利元就が、江戸時代には浅野氏が、明治以降は国家が保護しています。平家の政権は滅びましたが、清盛が創った厳島神社の文化的価値は時代を超えて継承されてきました。
清盛像は宮島のどこで見られますか?
宮島桟橋から厳島神社方向へ徒歩約3分の場所に、平成26年(2014年)3月に建立された平清盛像があります。この像は清盛の没後830年を記念して建てられたもので、京都の方角を向いているとされています。また、京都の六波羅蜜寺には鎌倉時代に制作された重要文化財の平清盛坐像があります。
まとめ
平清盛が厳島神社を大規模に造営した仁安3年(1168年)の事業は、単なる神社建築の歴史に留まらず、日本の政治、経済、文化の転換点を象徴する出来事でした。瀬戸内海の制海権を掌握し、日宋貿易で莫大な富を得た清盛は、その経済力を背景に壮大な海上社殿を完成させました。
寝殿造りの様式を取り入れた社殿、平家納経の奉納、管弦祭や舞楽の伝播など、清盛がもたらした文化的遺産は、850年以上経った今も厳島神社に息づいています。平家は滅亡しましたが、清盛が創造した厳島神社の価値は時代を超えて継承され、1996年には世界文化遺産として国際的にも認められました。
平清盛と宮島の物語は、一人の武士が持つビジョンと実行力が、どれほど長く深く歴史に影響を与え得るかを示しています。厳島神社を訪れる際は、清盛が見た夢と、それを実現するために注がれた情熱に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
参考文献・出典
- 文化遺産オンライン:厳島神社 本社本殿、幣殿、拝殿
- 厳島神社公式サイト:御由緒
- 一般社団法人宮島観光協会:嚴島神社
- WANDER 国宝:国宝-絵画|平家納経
- 六波羅蜜寺:寺宝
- ひろしま文化大百科:広島のいしずえ「平氏と厳島文化」
- 宮島町史編纂委員会『宮島町史 通史編』宮島町、1992年
- 福山敏男『厳島神社の建築』中央公論美術出版、1988年
- 西和夫『厳島神社の建築史的研究』中央公論美術出版、2005年
- 小松茂美『平家納経の研究』講談社、1996年