厳島神社の社殿は、海に浮かぶように建つ壮麗な姿で知られています。満潮時には建物が海上に浮かび、干潮時には海底が現れる独特の景観は、世界中の人々を魅了してきました。
しかし、この配置はどのようにして生まれたのでしょうか。また、時代を経てどのような変化を遂げてきたのでしょうか。この記事では、創建から現代に至るまでの社殿配置の成立と変遷を、建築計画の観点から詳しく見ていきます。
創建時の社殿|小規模な海上の祠
厳島神社の創建は、推古天皇元年(593年)とされています。社伝によれば、地元の豪族である佐伯鞍職(さえきのくらもと)が神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る社殿を創建したとされます。
ただし、この時代の社殿は現在のような大規模なものではありませんでした。平清盛が大改修を行うまで、厳島神社の社殿は小規模なものだったと記録されています。当時の具体的な配置や規模については史料が限られていますが、海上に建つという立地は、島全体を神聖視する信仰から生まれたものでした。
宮島は「神に斎く(いつく=仕える)島」という語源のとおり、古代から島そのものが神として信仰されてきました。島の土地を傷つけないよう、木を切ったり土を削ったりすることを避けるため、潮の満ち引きする海上に社殿を建てるという選択がなされたのです。
創建時の配置がどのようなものだったのか、より詳しく知りたい方には、厳島神社の建築史全体を扱った記事がおすすめです。
古代から現代まで、時代ごとの建築様式と変遷を体系的に理解できます。
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平清盛による大改修|寝殿造の導入と配置の確立
結論から申し上げると、現在の厳島神社の社殿配置の基本形は、平安時代末期の仁安3年(1168年)頃、平清盛の援助のもとで神主の佐伯景弘(さえきのかげひろ)が行った造営によって確立されました。この時、平清盛は武士として初めて太政大臣に昇りつめ、権力が絶頂期にあった50歳でした。
寝殿造を神社建築に応用した革新的な発想
平清盛が導入したのは、当時の貴族邸宅様式である寝殿造(しんでんづくり)でした。寝殿造とは、主人が居住する寝殿を中心に、東西に対屋(たいのや)という付属建物を配置し、それらを回廊で結んだ建築様式です。
清盛はこの様式を神社建築に応用し、瀬戸内海を「池」に、社殿を「寝殿」に見立てるという独創的な発想で設計しました。平安貴族が邸宅の池に船を浮かべて管絃(かんげん)の遊びを楽しんだように、厳島でも海を舞台に管絃が奉納されるようになり、これが現在の「管絃祭」として受け継がれています。
社殿配置の基本構成
清盛の造営した社殿の配置は、次のような構成でした。湾の最も奥まったところに本社が北西を正面として建ち、本殿・幣殿(へいでん)・拝殿・祓殿(はらいでん)が一直線上に並びます。祓殿の前方(海側)には高舞台があり、その周囲には平舞台が広がります。
平舞台に接して、左右の門客神社(かどまろうどじんじゃ)や楽房などの小建物が配置され、平舞台の最も海側は「火焼先(ひたさき)」と呼ばれる桟橋状の部分になっています。この火焼先の延長線上に、海中の大鳥居が建つ設計です。
祓殿の側面からは左右に屈折する廻廊(東廻廊、西廻廊)が伸び、東廻廊の途中には摂社客神社(まろうどじんじゃ)が西を正面として建ちます。この配置全体が、海上に展開する厳島神社特有の景観を形成しています。
左右非対称という特徴
一般的な神社建築では左右対称が基本とされますが、厳島神社は寝殿造の特徴を継承し、意図的な左右非対称構造を持っています。本社の幣殿と祓殿は本殿から見てやや西寄りに位置し、本殿と拝殿の柱の配置も左右対称になっていません。
これは、主神である市杵島姫命を祀る部分の柱間を他より広く取っているためで、社殿の中軸が西方にずれています。このような非対称性は、寝殿造の自然な美しさを重視する設計思想から来ており、神社建築としては極めて珍しい特徴です。
清盛の造営した社殿は、本殿・拝殿・回廊など主要建物が海上に建ち並び、その壮麗さは「極楽浄土を表した」と称えられました。この時代に確立された配置構成と建築様式が、現在の厳島神社の基本形となっています。
鎌倉時代の火災と再建|配置の忠実な継承
平清盛が造営した壮麗な社殿は、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度にわたる大火災で全て焼失しました。しかし、厳島神社への信仰は平家滅亡後も途絶えることなく、源氏をはじめとする時の権力者たちによって保護され続けました。
現在残る主要な社殿は、この火災後の仁治年間(1240〜1243年)以降に再建されたものです。再建にあたっては、清盛時代の配置構成と建築様式が忠実に踏襲されました。本社の幣殿・拝殿・祓殿、客神社の本殿・幣殿・拝殿・祓殿は仁治2年(1241年)の建築であり、鎌倉時代の建築技術を今に伝える貴重な遺構となっています。
鎌倉幕府は厳島神社の崇敬に熱心で、神主を佐伯氏から関東御家人の藤原氏に交代させるなど、積極的な保護を行いました。社殿の再建は幕府の援助を受けて進められ、平安時代末期の配置が正確に再現されたのです。
『一遍上人絵伝』に見る配置の謎
興味深いことに、弘安10年(1287年)の臨時祭を描いた『一遍上人絵伝』には、現存する社殿とは異なる配置が描かれています。絵巻では拝殿の前に祓殿がなく、拝殿左右から発した廻廊が拝殿前方を方形に区画し、区画された中に高舞台が浮かぶ様子が見られます。
この絵巻に描かれた建物構成が絵空事なのか、それとも仁治の再建以前にこのような方形区画の廻廊を設けていた時期があったのかは定かではありません。ただし、現存する社殿の配置は仁治の再建以降、基本的に清盛時代の形を保っているとされています。
室町・戦国時代の変遷|本殿の建て替えと配置の維持
鎌倉時代以降も、室町時代、戦国時代を通じて、歴代の権力者による保護と修復が続けられました。本社本殿は元亀2年(1571年)に毛利元就の孫、毛利輝元によって改築されています。この改築は火災によるものではなく、永禄12年(1569年)に毛利元就と対立した備後の豪族・和智兄弟が本殿に立て籠もり殺害されるという事件があり、社殿が血でけがれたとして建て替えられたものです。
摂社客神社の社殿は、永享2年から5年(1430〜1433年)に大規模な修理を受けています。室町時代を通じて、社殿の維持・修復が継続的に行われ、清盛時代の配置が保たれてきました。
特に毛利元就は、厳島の戦い(1555年)で神聖な島を戦場にしたことを悔いて、大鳥居の再建や社殿の整備を積極的に行いました。戦国時代という動乱の時代にあっても、厳島神社の配置と建築様式は大切に守られてきたのです。
附属建物の追加|配置の拡張と充実
平清盛の時代に確立された基本配置に、後世、いくつかの建物が追加されました。これらの附属建物は、神社の機能を充実させるとともに、配置全体をより豊かなものにしています。
能舞台の追加
江戸時代の延宝8年(1680年)に改築された能舞台は、日本で唯一の海に浮かぶ能舞台です。海上にせり出し、足拍子がよく響くように床が一枚板のようになっており、日本三舞台の一つに数えられています。能舞台は平清盛の時代には存在せず、後に追加された建物ですが、現在の厳島神社の景観に欠かせない要素となっています。
門客神社と楽房
平舞台に接して配置される左右の門客神社、左右の楽房なども、清盛時代には存在しなかった附属社殿です。これらは簡易な構造で後から追加されたもので、台風などの被害を受けるのも主にこれらの建物に限られています。本殿、拝殿などの主要建物は、清盛の時代から850年間、本殿内陣が一度も水没したことがないとされており、主要社殿が200年に一度の高潮にも水没しない位置を選んで建てられていることが分かります。
五重塔と多宝塔
陸上部分にも、時代を経て建物が追加されました。湾の東岸の塔岡(とうのおか)には末社豊国神社本殿(千畳閣)と五重塔があり、五重塔は応永14年(1407年)の建立です。湾の西岸には多宝塔があり、これらの仏教建築は神仏習合の名残をとどめています。
これらの附属建物の追加により、厳島神社の配置は時代とともに充実し、より複雑で豊かな景観を形成してきました。しかし、平清盛が確立した基本配置は、現在も変わらず保たれています。
建築計画に込められた思想|海との共存
厳島神社の社殿配置には、海との共存を可能にする工夫が随所に見られます。社殿が海域に建っているにもかかわらず、柱の不同沈下を起こさないのは、社殿の建つ位置がもともと陸地であったところを掘削して海としたためであり、社殿は大きな岩盤の上に建っているのではないかとされています。
建物の基礎は、浅い海底に地上の建物と同様に礎石を据え、杭(束)を立て、その上に板床を張っています。木製の杭は満潮時には海水に浸かるため腐食をまぬがれず、定期的に点検を行って、腐食が判明した場合は根継ぎを行っています。
また、回廊の床板には隙間が設けられており、高潮時に海水が床下を通り抜けるようになっています。これにより、水圧を分散させ、建物への被害を最小限に抑える工夫がなされています。このような海との共存を可能にする建築計画は、850年以上にわたって受け継がれてきました。
よくある質問
平清盛以前の社殿配置はどのようなものでしたか?
平清盛が大改修を行うまで、厳島神社の社殿は小規模なものでした。推古天皇元年(593年)の創建時から海上に建つという立地は同じでしたが、現在のような大規模な配置が確立されたのは仁安3年(1168年)頃の清盛による造営からです。創建時の具体的な配置については史料が限られており、詳細は明らかではありません。
鎌倉時代の火災後、配置は変わりましたか?
建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で建物は全て焼失しましたが、仁治年間(1240〜1243年)の再建では、清盛時代の配置構成と建築様式が忠実に踏襲されました。基本的な配置は変わっていないと考えられています。
なぜ厳島神社は左右非対称なのですか?
厳島神社が寝殿造の特徴を継承しているためです。寝殿造は左右非対称が基本で、一般的な神社建築の左右対称とは異なります。主神を祀る部分の柱間を広く取るなど、寝殿造の自然な美しさを重視する設計思想が反映されています。
能舞台はいつ追加されたのですか?
現在の能舞台は江戸時代の延宝8年(1680年)に改築されたものです。平清盛の時代には存在せず、後に追加された建物ですが、現在の厳島神社の景観に欠かせない要素となっています。日本で唯一の海に浮かぶ能舞台として知られています。
台風や高潮で社殿は被害を受けませんか?
台風で被害を受けるのは、能舞台、門客神社、楽房など、平清盛の時代には存在しなかった附属社殿に限られます。本殿、拝殿などの主要建物は、200年に一度の高潮にも水没しない位置を選んで建てられており、清盛の時代から850年間、本殿内陣は一度も水没したことがないとされています。
まとめ
厳島神社の社殿配置は、平安時代末期に平清盛が確立した寝殿造の神社建築という革新的な構成を、850年以上にわたって受け継いできました。創建時の小規模な祠から、清盛による大改修、鎌倉時代の火災後の忠実な再建、そして後世の附属建物の追加まで、時代を経ても基本配置は変わらず保たれています。
海との共存を可能にする建築計画の知恵、左右非対称という独特の美しさ、そして平安貴族の雅な文化を伝える配置構成。これらすべてが、世界遺産に登録された厳島神社の価値を形作っています。現地を訪れる際は、ぜひこの配置の歴史に思いを馳せながら、時代を超えて受け継がれてきた建築計画の妙を味わってください。