厳島神社の象徴である大鳥居は、平清盛時代の創建から約900年にわたり、何度も建て替えられながら海上に立ち続けてきました。現在の鳥居は明治8年(1875年)に再建された9代目で、従来は8代目とされていましたが、近年の調査研究により新たな事実が明らかになっています。この記事では、各時代の大鳥居がどのような経緯で建て替えられてきたのか、その歴史を詳しく解説します。
平清盛時代の創建から中世まで
初代大鳥居の誕生(1168年頃)
厳島神社が現在のような海上社殿の形に整えられたのは、平清盛の援助を受けた仁安3年(1168年)のことです。この時、平清盛の支援により佐伯景弘が社殿を大規模に造営し、同時に海上の大鳥居も創建されたと考えられています。
初期の扁額は、表側が小野道風、裏側が弘法大師の筆であったと伝えられています。平清盛が採用したこの鳥居は、当時としては最新型の設計であり、厳島神社を平家の氏神として崇める象徴的な存在となりました。
見過ごされていた2代目(1223~1240年頃)
令和の大修復工事に先立つ調査で、重要な発見がありました。過去の工事記録を精査したところ、1240年の報告書に大鳥居「造畢分」(すでに造り終えた物)との記述が見つかったのです。これにより、1223年から1240年の間に建て替えが行われていたことが判明しました。
従来は1286年の再建が2代目とされていましたが、実際にはその前にもう一度建て替えがあったことになります。この発見により、現在の大鳥居が8代目ではなく9代目であることが確認されました。
3代目と4代目の記録(1286年・1371年)
弘安9年(1286年)10月、3代目の大鳥居が再建されました。この鳥居は一遍聖絵に描かれており、朱塗りの明神鳥居であったことが確認できます。しかし正中2年(1325年)6月25日、大風により倒壊してしまいました。
建徳2年/応安4年(1371年)4月には4代目が再建されています。この時の材木は、現在の佐伯区利松や廿日市市宮内などから運ばれました。ただし、この鳥居がいつ倒壊したのかは記録に残っていません。
戦国時代から江戸時代の建替え
両部鳥居への転換(1547年)
天文16年(1547年)11月18日、大内義隆を旦那として5代目の大鳥居が再建されました。この再建が大きな転換点となります。それまでの明神鳥居から、両部鳥居という新しい形式に変わったとされているのです。
両部鳥居は、2本の主柱の前後に袖柱を立て、合計6本の柱で支える構造です。この形式は神仏習合の影響を受けたもので、密教の金剛界と胎蔵界の「両部」に由来するといわれています。また大内義隆は、大願寺尊海の要請により、後奈良天皇の宸翰の額を神社に贈りました。
毛利氏による再建(1561年)
永禄4年(1561年)10月、毛利隆元を当主とする毛利氏一族によって6代目の大鳥居が再建されました。この時の材木は、現在の能美島大原・中村、仁保島、山口県岩国市から運ばれています。
この鳥居は約155年間にわたって海上に立ち続けましたが、享保元年(1716年)に自然倒壊しました。海水や潮風、台風など過酷な環境に晒され続けた結果、木材の劣化が進んだものと考えられます。
浅野吉長の再建(1739年)
元文4年(1739年)9月、広島藩第5代藩主の浅野吉長によって7代目の大鳥居が再建されました。浅野吉長は藩政改革に成功し、「江戸七賢人」の一人に数えられる名君として知られています。
この時の楠木は、現在の中区広瀬、安芸区船越、安芸郡府中町、呉市下蒲刈町から運ばれました。しかし安永5年(1776年)7月7日、落雷により倒壊してしまいます。天明8年(1788年)に厳島を訪れた菅茶山は、『遊芸日記』の中で「華表旧と中に在り、往年雷震焚蕩し、仍お未だ修建せず」と記しており、しばらくの間、大鳥居がない状態が続いていたことがわかります。
江戸後期から明治への移行
浅野斉賢の再建(1801年)
享和元年(1801年)3月27日、広島藩第8代藩主の浅野斉賢によって8代目の大鳥居が再建されました。この時の楠木は、和歌山県牟婁郡、広島市宇品、竹原市、呉市などから運ばれています。
特に広島市宇品島からは、直径3.5メートル、高さ5メートルという巨大な楠木が切り出された可能性が指摘されています。しかし嘉永3年(1850年)8月7日、大風と高潮により大破してしまいました。扁額は阿多田島付近まで漂流したという記録が残されています。
白木の時代と朱色への回帰
明治初頭、神仏分離令の影響で大鳥居に大きな変化がありました。朱色の鳥居は仏教色が強いという理由で、明治政府の命令により白木造りに変更されたのです。彩色を施さない素木の状態が、神社建築の伝統にのっとっているとされました。
明治32年(1899年)に大鳥居が国の重要文化財に指定されると、明治42年(1909年)より約2年間の大修理が実施されました。この時、白木から再び朱色への塗り替えが行われ、屋根の葺き替え工事も同時に執り行われています。
現在の大鳥居(9代目)の誕生
明治の再建(1875年)
明治8年(1875年)7月18日、小泉甚右衛門(小泉本店)らの斡旋により、現在の大鳥居が再建されました。従来は8代目とされていましたが、近年の調査研究により9代目であることが判明しています。
高さ約16.6メートル、総重量約60トンという巨大な構造で、木造の鳥居としては日本最大級です。主柱には樹齢約500年のクスノキの自然木が使用されており、東柱は宮崎県産、西柱は香川県産のクスノキが用いられています。
昭和・平成の修理
大正14年(1925年)には、柱脚に鉄筋コンクリートを巻きつける補強工事が行われました。しかし昭和25年(1950年)の検査で、コンクリート補強が逆に海虫の蝕害を増進させる結果を生んでいることが判明します。
そのため昭和25年に各柱を部分的に切り取って根継ぎを施し、福岡県と佐賀県産のクスノキで補強されました。同時に柱の塗装の塗り替えや屋根の葺き替え工事も行われています。昭和32年(1957年)には厳島神社昭和大修理が竣工し、昭和44年(1969年)には第2次昭和大修理が開始されました。
令和の大規模修復(2019~2022年)
令和元年(2019年)6月から約3年半にわたり、約70年ぶりの大規模修復工事が実施されました。シロアリによる被害で空洞になっていた主柱の内部に部材をはめ込み、ステンレス製のバンドや炭素繊維を巻き付けて補強されています。
また紫外線による色あせ対策として、耐久性の高い化学顔料とアクリル樹脂を使った塗料が採用されました。従来よりも赤みが強い朱色になっており、これは末永く美しい姿を保つための工夫です。令和4年(2022年)12月に工事が完了し、新たな装いで参拝客を迎えています。
よくある質問
現在の大鳥居は何代目ですか?
現在の大鳥居は9代目です。明治8年(1875年)に再建されたもので、従来は8代目とされていましたが、令和の修復工事に伴う調査により、1223年から1240年の間にも建て替えがあったことが判明し、9代目であることが確認されました。
大鳥居が両部鳥居になったのはいつですか?
天文16年(1547年)に大内義隆が再建した時から両部鳥居になったとされています。それまでは2本柱の明神鳥居でしたが、この時から主柱の前後に袖柱を立てた6本柱の構造に変わりました。
大鳥居が白木だった時期があるのは本当ですか?
本当です。明治初頭から後半にかけての約30年間、神仏分離令の影響で朱色ではなく白木(素木)造りになっていました。朱色の鳥居は仏教色が強いとされ、神社建築の伝統にのっとった白木に変更されたのです。明治42年(1909年)の大修理で再び朱色に塗り替えられました。
大鳥居の建替え周期はどのくらいですか?
時代によって異なりますが、概ね100年から200年程度で建て替えられてきました。自然倒壊や台風、落雷などの災害により予期せぬ倒壊も多く、必ずしも計画的な建替えではありませんでした。現在の9代目は約150年が経過しています。
令和の修復工事ではどのような作業が行われましたか?
2019年から2022年にかけての修復では、シロアリ被害で空洞になった主柱内部への部材の充填、ステンレス製バンドと炭素繊維による補強、屋根の檜皮葺き替え、紫外線に強い新塗料による塗装などが実施されました。約70年ぶりの大規模修復となりました。
まとめ
厳島神社の大鳥居は、平清盛時代の創建から約900年にわたり、9回の建替えを経て現在に至っています。各時代の権力者たちが信仰と威信をかけて再建を支援し、台風や落雷などの自然災害を乗り越えながら、海上の聖域標識として立ち続けてきました。
近年の研究により、従来8代目とされていた現在の大鳥居が実は9代目であることが判明するなど、新たな発見も続いています。令和の大修復を終えた大鳥居は、最新の技術で補強されながらも伝統的な姿を保ち、これからも宮島のシンボルとして多くの人々を迎え続けることでしょう。