平安時代末期に武士として初めて太政大臣に上り詰めた平清盛。その栄華の礎となったのが、なぜ数ある神社の中から宮島の厳島神社を選び、篤く信仰したのでしょうか。多くの方が抱くこの疑問には、実は明確で合理的な戦略的理由がありました。
平清盛が宮島を選んだ最大の理由は、瀬戸内海制海権の掌握と日宋貿易の拠点確保という経済・軍事戦略でした。1146年に安芸守に任官した清盛は、瀬戸内海航路の要衝に位置する宮島の地理的価値を見抜き、厳島神社を平家の守護神として崇敬することで、この地域の完全支配を実現したのです。海上交通の安全祈願という宗教的側面と、貿易利益の確保という経済的側面が巧妙に組み合わされた、極めて戦略的な選択だったといえるでしょう。

平清盛の宮島選択に至る歴史的経緯
安芸守任官と瀬戸内海進出の契機
平清盛が宮島と深く関わるきっかけとなったのは、久安2年(1146年)、29歳という若さで安芸守に任官したことでした。この任官は単なる地方官職の就任ではなく、平家にとって瀬戸内海世界への本格的な進出を意味する重要な転換点でした。
安芸国は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、本州と四国、九州を結ぶ海上交通の要衝でした。父・平忠盛の代から海賊討伐で瀬戸内海に関わってきた平家にとって、この地域の正式な支配権を得ることは、長年の目標達成を意味していました。清盛はこの機会を最大限に活用し、瀬戸内海全域の制海権確立に向けて動き始めたのです。
特に注目すべきは、清盛がこの任官を単なる行政職務として捉えていなかった点です。彼は安芸守として在任中から、積極的に厳島神社への参詣を重ね、社殿の修復や造営に取り組みました。これは単純な信仰心だけでなく、地域支配の正統性を宗教的権威によって裏付けようとする、極めて政治的な行動でした。
『平家物語』に記された宗教的体験と政治的決断
『平家物語』には、清盛が厳島神社を篤く信仰するようになった経緯について、興味深い記述があります。それによると、清盛が高野山に参詣した際、老僧から「厳島神社を造営すれば、必ず位階を極めるであろう」という神秘的なお告げを受けたとされています。
この宗教的体験が実際にあったかどうかは定かではありませんが、清盛がこの「お告げ」に従って厳島神社の大造営を決断したのは歴史的事実です。仁平2年(1152年)には初回の修復を、さらに仁安3年(1168年)には現在の規模に匹敵する大規模な造営を実施しました。
しかし、この宗教的動機の背後には、極めて現実的な政治・経済的計算があったと考えられます。厳島神社への投資は、地域の信仰的中心としての地位確立、海上交通の安全祈願による商人・船主の信頼獲得、そして平家の威信向上という複数の効果を同時に狙った、極めて戦略的な決断だったのです。

日宋貿易拠点としての宮島の戦略的価値
清盛が宮島を選んだ最も重要な理由の一つが、日宋貿易における戦略的価値でした。従来、中国との貿易は九州の大宰府・博多を中心に行われていましたが、清盛は京都により近い瀬戸内海での貿易展開を構想していました。
宮島は瀬戸内海航路の中央部に位置し、大輪田泊(現在の神戸港)から博多に至る海上ルートの重要な中継点でした。また、宋船が瀬戸内海の奥深くまで安全に航行できるよう、音戸の瀬戸の開削や各地の港湾整備を進める上で、宮島は格好の監督・管理拠点となったのです。
清盛は1173年(承安3年)には、宋船を博多を素通りさせて直接大輪田泊まで導入することに成功しています。この画期的な航路変更の背景には、厳島神社を海上交通の守護神として確立し、瀬戸内海全域の航行安全を保証するシステムを構築したことがありました。宮島はこのシステムの精神的・実質的な中核として機能していたのです。
瀬戸内海制海権確立の特徴と戦略的意義
海賊討伐から海上交通管理への転換
平家の瀬戸内海進出は、単純な軍事的征服ではなく、海賊討伐を通じた秩序構築から始まりました。平忠盛・清盛父子は、従来の「海賊を武力で制圧する」という手法から、「海賊を組織化して海上交通を管理する」という革新的なシステムへと転換を図りました。
この転換において、宮島の厳島神社は極めて重要な役割を果たしました。神社を海上交通の守護神として位置づけることで、平家は単なる武力支配者ではなく、宗教的権威に裏付けられた正統な海上秩序の保護者としての地位を確立したのです。
具体的には、厳島神社への参詣を通じて商人や船主との信頼関係を構築し、定期的な祭礼や神事を通じて海上交通従事者のネットワークを形成しました。このシステムにより、平家は瀬戸内海の隅々まで情報網を張り巡らせ、効率的な海上交通管理を実現したのです。
宗像三女神信仰と海上交通の安全保障
厳島神社の祭神である宗像三女神(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)は、古来より海上交通・航海安全の神として信仰されてきました。清盛がこの神社を選んだのは、既存の信仰基盤を活用できるという実利的な判断もありました。
清盛は厳島神社の造営に際して、京都の寝殿造を取り入れた海上社殿という独特の建築様式を採用しました。この海に浮かぶような神秘的な社殿は、海上から参詣する商人や船主に強烈な印象を与え、平家の権威と宗教的庇護への信頼感を醸成する効果がありました。
また、清盛は大阪の四天王寺から舞楽を移し、管絃祭などの華麗な神事を創始しました。これらの文化的催事は、単なる宗教行事を超えて、瀬戸内海航路に関わる人々の重要な交流の場として機能し、平家を中心とした経済ネットワークの結束を強化する役割を果たしました。

大輪田泊整備と宮島の連携システム
清盛の海上戦略において、宮島と大輪田泊は車の両輪として機能していました。大輪田泊は日宋貿易の実際の拠点として物理的な港湾機能を担い、宮島は精神的・宗教的な拠点として航海安全と商業繁栄を保証する役割を分担していたのです。
清盛は承安3年(1173年)に大輪田泊に経ヶ島という人工島を築造し、大型の宋船が直接入港できる設備を整えました。この大事業と並行して、宮島では厳島神社の社殿群が完成し、海上からの壮麗な参詣ルートが確立されました。
興味深いことに、清盛は後白河法皇をはじめとする皇族・貴族の厳島参詣の際には、大輪田泊から唐船(宋船)で送迎を行っていました。これは単なる交通手段の提供ではなく、日宋貿易の成功と平家の国際的地位を誇示する政治的パフォーマンスでもありました。宮島はこうした演出の舞台として、平家の威信向上に大きく貢献していたのです。
清盛の宮島選択が歴史に与えた影響と意義
国際貿易拠点としての日本の地位向上
清盛の宮島戦略は、日本の国際的地位を大きく向上させる結果をもたらしました。従来の日中貿易が九州の辺境地域で細々と行われていたのに対し、清盛は都に近い瀬戸内海での本格的な国際貿易を実現し、日本を東アジア海域の重要な交易拠点として位置づけることに成功したのです。
宮島を精神的拠点とする平家の海上ネットワークは、単に物資の交換にとどまらず、文化・技術・情報の交流拠点としても機能しました。宋からもたらされた最新の医学知識、建築技術、芸術作品などは、宮島を経由して日本全国に波及し、平安文化の国際化に大きく貢献しました。
特に注目すべきは、宋銭の大量流入によって日本で初めて本格的な貨幣経済が芽生えたことです。清盛は宋銭を重りとして船底に敷き詰める宋船の特性を利用し、大量の銅銭を輸入して国内流通を図りました。この通貨革命の拠点となったのが、まさに宮島を精神的支柱とする平家の交易システムだったのです。
日本の海洋国家としての基盤形成
清盛の宮島選択とその後の海上戦略は、日本が海洋国家として発展する基盤を形成する重要な転換点となりました。それまで大陸文化の受容に終始していた日本が、初めて主体的に海上交通を管理し、国際貿易を主導する立場に立ったのです。
宮島を中心とする平家の海上システムは、後の時代にも大きな影響を与えました。鎌倉時代には元寇という国難に際して瀬戸内海の制海権が国防の要となり、室町時代の日明貿易、江戸時代の北前船航路に至るまで、宮島周辺海域は常に日本の海上交通の中核として機能し続けました。
また、清盛が確立した「宗教的権威と実利的支配の融合」という統治モデルは、その後の武士政権にも継承されました。厳島神社が現在まで「海の守り神」として崇敬され続けているのは、清盛が創り上げたこのシステムの永続的な影響力を物語っています。

現代に受け継がれる清盛の戦略的遺産の価値
平清盛が宮島を選択した戦略的判断は、現代においても重要な示唆を提供しています。地理的優位性の活用、既存の文化・宗教基盤との調和、国際的な視野に基づく長期戦略の構築など、清盛の手法は現代の地域開発や国際協力においても通用する普遍的な価値を持っています。
特に、宗教的権威と実利的利益を両立させた清盛のアプローチは、現代の観光立国政策や文化外交にも応用可能な知見を含んでいます。厳島神社が現在、年間数百万人の参拝者・観光客を集める国際的な観光拠点となっているのは、清盛が800年以上前に構築した「精神的価値と経済的価値の融合」というモデルが、時代を超えて有効性を発揮している証拠といえるでしょう。
また、瀬戸内海が現在も日本の重要な海上交通路として機能し続けていることは、清盛の地理的洞察の正確さを物語っています。現代の瀬戸内海では、かつての宋船に代わってコンテナ船やタンカーが行き交い、宮島は今なお海上交通の象徴的な存在として、国内外の人々に愛され続けているのです。
よくある質問
平清盛はなぜ他の神社ではなく厳島神社を選んだのですか?
厳島神社は瀬戸内海航路の要衝に位置し、海上交通の守護神である宗像三女神を祀る理想的な立地でした。清盛の日宋貿易戦略と海上制海権確立において、地理的・宗教的に最適な選択だったのです。
清盛の厳島神社造営にはどのくらいの費用がかかったのですか?
正確な金額は不明ですが、現在の社殿規模に匹敵する大造営(1168年)には莫大な私財が投じられました。日宋貿易で得た利益の相当部分を投資したと考えられ、それだけ戦略的価値が高かったことを示しています。
宮島選択は平家の栄華にどの程度影響したのですか?
宮島戦略は平家栄華の最重要基盤でした。瀬戸内海制海権と日宋貿易利益により清盛は太政大臣に昇り、平家は「一門にあらざれば人にあらず」と言われるほどの権勢を築くことができたのです。
清盛以前にも宮島を重視した権力者はいたのですか?
厳島神社の創建は推古天皇時代(593年)ですが、清盛ほど体系的な戦略で活用した例はありません。清盛が初めて宮島の地理的・宗教的価値を最大限に活かした政治・経済戦略を構築した人物といえます。
現在の厳島神社に清盛時代の建物は残っているのですか?
現在の社殿は鎌倉時代の再建ですが、清盛が定めた規模と様式を忠実に継承しています。海上社殿という独特の建築形式や寝殿造の要素は、清盛時代の設計思想を現在に伝える貴重な遺産です。
清盛の宮島戦略から現代が学べることはありますか?
地理的優位性の活用、文化・宗教との調和、国際的視野に基づく長期戦略など、現代の地域開発や観光政策にも応用可能な知見が豊富に含まれています。特に「精神的価値と経済的価値の融合」は普遍的な成功モデルです。
まとめ
平清盛が宮島を選んだ理由は、単純な宗教的信仰ではなく、瀬戸内海制海権の確立と日宋貿易拠点の確保という極めて戦略的な判断に基づいていました。安芸守任官(1146年)を契機として、清盛は宮島の地理的優位性と厳島神社の宗教的権威を巧妙に組み合わせ、平家の海上支配システムを構築したのです。
この戦略は見事に成功し、清盛は瀬戸内海の完全制海権を握り、日宋貿易によって莫大な富を蓄積することができました。大輪田泊の整備、音戸の瀬戸の開削、厳島神社の大造営という一連の事業は、すべて宮島を精神的拠点とする包括的な海洋戦略の一環だったのです。清盛の宮島選択は、日本が初めて主体的に海上交通を管理し、国際貿易を主導した画期的な転換点として、現代においても重要な歴史的意義を持ち続けています。