厳島神社をいまの姿にしたのは平清盛です。久安2年(1146年)に安芸守になって宮島と関わり始め、永暦元年(1160年)に初めて参詣し、長寛2年(1164年)に平家納経を納め、仁安3年(1168年)に海の上の社殿へと大きく造り替えました。神社そのものの創建は推古天皇元年(593年)と伝わり、清盛が建てたわけではありませんが、朱塗りの回廊が海に延びる今の形は、この1168年の造営に始まります。
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清盛が宮島を選んだ理由は三つ重なっています。安芸守として瀬戸内海の海上交通を押さえる足場だったこと、日宋貿易の航路の安全を祈る海の神(宗像三女神)が祀られていたこと、そして『平家物語』が伝える「厳島を造営すれば位を極める」という高野山でのお告げです。この記事では、清盛と厳島神社の関係を年代順にたどり、1168年の造営で何が変わったのか、平家が滅んだ後に神社がどうなったのかまでをまとめました。

平清盛と厳島神社の関係を年代順に
| 年 | 清盛の年齢 | 出来事 |
|---|---|---|
| 久安2年(1146年) | 29歳 | 安芸守になる。宮島との関わりが始まる |
| 永暦元年(1160年) | 43歳 | 平治の乱に勝った直後、初めて厳島神社に参詣 |
| 長寛2年(1164年) | 47歳 | 平家一門で写経した平家納経(33巻)を奉納 |
| 仁安2年(1167年) | 50歳 | 武士として初めて太政大臣になる |
| 仁安3年(1168年) | 51歳 | 神主の佐伯景弘とともに、海の上の社殿へ大造営 |
| 承安3年(1173年) | 56歳 | 大輪田泊(いまの神戸港)に宋の船を直接入れる |
| 治承5年(1181年) | 64歳 | 没する |
年齢は数え年です。清盛の生涯全体は平清盛|何をした人かにまとめています。
安芸守になって宮島と出会う(1146年)
清盛が宮島と関わり始めたのは、久安2年(1146年)、29歳で安芸守に任じられたときです。安芸国はいまの広島県西部で、瀬戸内海の海上交通の要にありました。この地方官の任命が、清盛と平家一門の行く先を大きく変えることになります。
初めての参詣(1160年)
清盛が初めて厳島神社に参詣したのは、永暦元年(1160年)8月。平治の乱で源義朝を破り、平家の天下が固まった直後です。以後、清盛は神主の佐伯景弘と結びつきを強め、たびたび宮島を訪れて管弦の遊びを奉納するようになります。

平家納経を納める(1164年)
長寛2年(1164年)9月、清盛は平家納経を厳島神社に納めました。清盛自ら筆をとった願文に始まり、平重盛・頼盛・教盛ら一門32人が一巻ずつ分担して写した、法華経28品と開結経・阿弥陀経・般若心経の計33巻です。33という数は、厳島の本地仏とされた十一面観音の三十三の姿にちなみます。金銀の箔や極彩色の下絵で飾られた装飾経の最高傑作とされ、いまは国宝として宝物館に収められています。厳島神社の宝物は厳島神社の宝物で紹介しています。
なぜ清盛は宮島を選んだのか(3つの理由)
瀬戸内海の海上交通を押さえる足場
父・忠盛の代から、平家は海賊の討伐を通じて瀬戸内海に足場を築いてきました。安芸守になったことで、清盛は瀬戸内海のほぼ中央にあたる安芸国を正式に治めることになります。本州・四国・九州を結ぶ航路の要にある宮島は、海を行き来する人と船を束ねる場所としてちょうどよい位置にありました。

日宋貿易と、航海の安全を祈る海の神
清盛は宋との貿易を、九州の博多止まりから、都に近い瀬戸内海の奥まで引き込もうとしました。大輪田泊を整え、承安3年(1173年)には宋の船を直接そこまで入れています。厳島神社に祀られる宗像三女神は古くから航海の安全を守る神で、宮島を貿易航路の守り神の座とすることは、信仰と商売の両方に筋が通っていました。宋から大量に入った銅銭(宋銭)は、日本に貨幣が広まるきっかけにもなっています。
『平家物語』が伝える高野山のお告げ
『平家物語』には、清盛が高野山に参詣したとき、老僧から「厳島神社を造営すれば、必ず位階を極めるであろう」と告げられた話があります。実際にあったかは分かりませんが、清盛がその後、武士として初めて太政大臣に上り、厳島神社の大造営へと進んだのは事実です。清盛自身、自らの栄達を厳島の神の加護と考えていたと伝えられます。
1168年の造営で厳島神社はどう変わったか
小さな社殿から、海の上に延びる社殿へ
仁安3年(1168年)、清盛の援助を受けて神主の佐伯景弘が実務を担い、それまでの小さな社殿を、本社の本殿・幣殿・拝殿・祓殿が一体となった海上の社殿へと造り替えました。東西の回廊は合わせて約275メートル。費用は日宋貿易で得た平家の富でまかなわれ、京から腕のいい工匠が送られたと言われます。

寝殿造を神社に持ち込む
このときの最大の特徴は、平安貴族の屋敷の様式である寝殿造を、神社の建築に取り入れたことです。建物を回廊で結び、庭の池に見立てた海に向かって開く——都の貴族の住まいを、そのまま神の住まいにした形です。配置は左右対称ではなく、海に沿って建物が連なります。床板には隙間があり、高潮のときは海水が床下を抜けていきます。様式の詳しいことは厳島神社の建築様式で解説しています。
行く日の潮を調べる清盛が選んだのは、1日2回姿が変わる場所だった
その2つの姿は同じ日に来ますが、あいだは約6時間。片方だけ見て帰ると、清盛の意図の半分しか見ていません。日付を入れると、その日に大鳥居まで歩ける時間帯と、社殿が海に浮かんで見える時間帯が分かります。着く時刻まで入れれば、その時刻にどう見えているかも分かります。
潮位は広島(地点記号 Q8)の値で、潮位表基準面の零点は平均海面下 200.0cm です。
これらの基準値は広島港の潮位を基準としており、厳島港では若干早まることが予想されます。
見え方の目安は当サイトの潮汐現象の解説に記載の数値によります。
▷ 清盛が整えた社殿と大鳥居を、ライトアップの夜と開門(6:30)直後の朝に見るなら、島内に泊まる手があります。島内の宿は宮島のホテル・旅館23軒で比べています。
泊まるなら、島内か対岸か清盛がつくったのは、時間とともに姿を変える社殿でした
この記事で見たとおり、現在の社殿の規模は1168年(仁安3年)の清盛による大造営に由来します。清盛が選んだのは、陸に建てる安全な場所ではなく、1日2回、姿がまるごと入れ替わる海の上でした。
その意図は、満潮の社殿と干潮の社殿を両方見ないと分かりません。そして2つのあいだは約6時間あきます。日帰りだと、片方だけ見て「写真と同じだった」で終わりがちです。
島内に泊まれば、夕方と翌朝で両方の顔を見られます。日が暮れたあとのライトアップは、日帰り客が最終便で帰ったあとの時間帯です。ただし島内は旅館が中心で宿数も限られ、料金は上がります。
対岸に泊まるなら費用を抑えられ、フェリーは約10分。潮の時刻に合わせて渡る回数を増やせます。行く日が決まっているなら、空室だけ先に見ておくと選べます。
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寝殿造の採用は、建物の形だけの話ではありません。京の都の洗練をそのまま宮島に移すことで、厳島神社は平家の権威と文化を映す場になりました。社殿を海の上に建てた理由はなぜ厳島神社は海に建てられたのかで解説しています。
管絃祭と舞楽——京の文化を宮島へ
清盛は社殿だけでなく、京の雅な文化も宮島に伝えました。代表が管絃祭です。都の貴族が楽しんだ管弦の遊びを神事にしたもので、清盛が始めたとされます。御座船に楽人が乗り込み、雅楽を奏でながら海を渡る祭りは、いまも続いています(管絃祭の歴史と見どころ)。清盛は大阪の四天王寺から舞楽も伝え、蘭陵王や納曽利などの演目が、いまも厳島神社で舞われています。
平家の氏神になった厳島神社と、平家が滅んだ後
平家一門の信仰
大造営のあと、厳島神社は平家一門の氏神として特別な地位を占めました。一門の武将たちは合戦の前に参詣して勝利を祈り、出世や慶事のたびに奉納を重ねます。清盛の嫡男・重盛も信仰が篤く、平家納経の写経にも加わっています。
清盛が建てた社殿は残っているか
残っていません。清盛の社殿は、鎌倉時代の承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で焼けました。いまの社殿の多くは仁治年間(1240〜1243年)以降に建て直されたものです。ただ、建物の配置と様式は清盛の時代の形を受け継いでおり、海に延びる社殿という清盛の構想は、いまもそのまま見ることができます。
源頼朝・毛利元就・浅野氏に受け継がれた保護
平家は壇ノ浦の戦いで滅びましたが、厳島神社は滅びませんでした。源頼朝は平家ゆかりの神社を退けず、保護を続けています。戦国時代には厳島の戦いに勝った毛利元就が社殿を修復し(毛利元就と宮島)、江戸時代には広島藩の浅野氏が守りました。平成8年(1996年)、厳島神社は世界文化遺産に登録されています。
よくある質問
平清盛が建てた神社はどこですか?
清盛が大きく造り替えたのが、広島県廿日市市の宮島にある厳島神社です。仁安3年(1168年)、海の上に延びるいまの社殿の形をつくりました。
厳島神社を作った人は誰ですか?
神社の始まりは推古天皇元年(593年)で、佐伯鞍職が社殿を建てたと伝わります。いまの海上の社殿の形をつくったのは、1168年の平清盛です。
平清盛はなぜ厳島神社を選んだのですか?
瀬戸内海の海上交通を押さえる足場だったこと、日宋貿易の航路を守る海の神が祀られていたこと、高野山でのお告げ(『平家物語』)の三つが重なっていたからです。詳しくは上の「なぜ清盛は宮島を選んだのか」を読んでください。
清盛と厳島神社の関係はいつから始まったのですか?
久安2年(1146年)に安芸守になったときからです。初めての参詣は永暦元年(1160年)、平家納経の奉納は長寛2年(1164年)、大造営は仁安3年(1168年)です。
清盛が造った社殿は今も残っていますか?
残っていません。鎌倉時代の2度の火災で焼け、いまの社殿は1240年代以降の再建です。配置と様式は清盛の時代の形を受け継いでいます。
平家納経は見られますか?
平家納経は国宝で、実物が公開される機会は限られています。宮島の宝物館では複製を見ることができます。公開の予定は宝物館で確かめてください。
宮島の清盛像はどこにありますか?
宮島桟橋から厳島神社の方へ歩いて約3分の場所に、平成26年(2014年)3月に建てられた清盛像があります。没後830年を記念したもので、京都の方角を向いているとされます。
参考文献・出典
- 文化遺産オンライン:厳島神社 本社本殿、幣殿、拝殿
- 嚴島神社公式サイト:御由緒
- 一般社団法人宮島観光協会:嚴島神社
- ひろしま文化大百科:広島のいしずえ「平氏と厳島文化」
- 瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会:瀬戸内の航路整備と日宋貿易
- 文化デジタルライブラリー:日宋貿易
- 六波羅蜜寺:寺宝
- 『平家物語』
- 宮島町史編纂委員会『宮島町史 通史編』宮島町、1992年
- 福山敏男『厳島神社の建築』中央公論美術出版、1988年
- 西和夫『厳島神社の建築史的研究』中央公論美術出版、2005年
- 小松茂美『平家納経の研究』講談社、1996年