厳島神社の大鳥居のいちばんの秘密は、倒れない仕組みです。大鳥居は、海底に埋めて固定されているのではなく、自分の重さ(約60トン)だけで立っています。主柱は樹齢約500年のクスノキで、高さは約16.6メートル。主柱2本と袖柱4本の計6本で支える「両部鳥居」という形です。屋根の中に約7トンの石を詰めて重心を下げ、足元は松の杭と花崗岩の敷石で固めてあります。現在の鳥居は明治8年(1875年)に建てられた9代目で、2019年から2022年の大修理を終えています。
※本記事には広告(アフィリエイトリンク)が含まれます。
潮位が100cm以下に下がる干潮の時間帯には、根元まで歩いて行けます。250cm以上に満ちると、海に浮かんで見えます。行く日の時刻は、下の道具に日付を入れると分かります。この記事では、倒れない仕組み、初代から9代目までの建て替えの記録、扁額の文字や朱色の意味まで、大鳥居について調べたことを一つにまとめました。

行く日の潮を調べる「埋まっていない」は、根元まで歩いて確かめられる
干潮で潮位が100センチを切ると、大鳥居の足元まで歩けます。日付を入れると、その日に大鳥居まで歩ける時間帯と、社殿が海に浮かんで見える時間帯が分かります。着く時刻まで入れれば、その時刻にどう見えているかも分かります。
潮位は広島(地点記号 Q8)の値で、潮位表基準面の零点は平均海面下 200.0cm です。
これらの基準値は広島港の潮位を基準としており、厳島港では若干早まることが予想されます。
見え方の目安は当サイトの潮汐現象の解説に記載の数値によります。
▷ 大鳥居のライトアップは日没の30分後から23時まで(宮島観光協会)で、島から出る最終便(JR 22:14・通常ダイヤ)のあとも続きます。夜の大鳥居と、翌朝6:30の開門直後の参拝まで歩いて見るなら、島内に泊まる手があります。島内の宿は宮島のホテル・旅館23軒で、泊まるか日帰りかから比べています。
泊まるなら、島内か対岸か「自分の重さだけで立っている」を、真下で確かめる
この記事で書いた構造——約60トンの自重、島木の内部に詰めた約7トンの石、足元に打ち込まれた30〜100本の松杭、6本柱による荷重分散——は、写真では伝わりません。干潮で根元まで歩き、高さ約16.6メートルの柱を真下から見上げて、はじめて「埋まっていない」という事実が実感に変わります。
問題は時間です。干潮の時刻は日によって大きく動きます。上のツールで狙った日を見ると分かりますが、朝いちばんや夕方に来ることも珍しくありません。広島市内から日帰りで往復すると、その時間に島にいられる保証がありません。
島内に泊まれば、干潮が何時でも足を運べます。2019〜2022年の大規模修復で直径40〜50センチ・深さ約4メートルの空洞が見つかったという話も、実物の前で聞くと重みが違います。ただし島内は旅館が中心で宿数も限られ、料金は上がります。
対岸(宮島口・宮浜温泉)なら費用を抑えられ、フェリーは約10分。朝の干潮を狙うなら始発便で十分間に合います。行く日が決まっているなら、空室だけ先に見ておくと動きやすくなります。
宮島島内の宿の空室を見る![]()
※本記事には広告(アフィリエイトリンク)が含まれます。
大鳥居はなぜ倒れないのか
埋まっていない。約60トンの重さで立っている
大鳥居は、地面に埋め込まれているわけではありません。高さ約16.6メートル、総重量約60トンという重さそのものが、倒れない理由です。
いちばんの工夫は、鳥居の最上部にある笠木と島木です。この2本は箱のような作りになっていて、中に人の頭ほどの大きさの石が詰められています。重さは約7トン。上に重りを載せて全体の重心を下げ、風や波で揺れにくくしています。かつてはこの石が276個あり、一つずつに般若心経の一文字が書かれていたと伝わります(いまの石に文字はありません)。
基礎に固定しないことには、もう一つ意味があります。地震のときに基礎ごと揺さぶられて倒れる危険を避け、わずかな「遊び」を残して長く立ち続けるという、伝統的な木造建築の考え方です。
足元は千本杭と花崗岩の敷石
海の底の軟らかい砂地に60トンの重さを載せるため、足元には「千本杭」と呼ばれる地盤の補強がされています。主柱と袖柱の下には、それぞれ30本から100本の松の杭が、約50センチの深さまで密に打ち込まれています。
いまはこの松杭の上に厚さ45センチのコンクリートの基礎があり、その上に厚さ24センチの花崗岩の敷石(布石)が並べられています。大鳥居は、この敷石の上に「置かれている」だけです。

6本の柱で支える両部鳥居
大鳥居は、主柱2本の前後に袖柱(控柱)を2本ずつ立てた、計6本の柱で支える「両部鳥居」です。主柱と袖柱は上下2か所で貫(差貫)を通し、楔で締めて一体にしてあります。6本で重さを分け合うので、2本柱の鳥居より横からの力に強くなります。全国の鳥居の約9割は2本柱の明神鳥居で、両部鳥居は少数派です。
主柱の根元の周囲は約10メートル、棟の長さは約24.2メートル。木造の鳥居としては日本最大級です。
主柱はクスノキ、袖柱は杉
主柱には樹齢約500年のクスノキの自然木が使われています。いまの鳥居は、東の柱が宮崎県産、西の柱が香川県産です。昭和25年(1950年)の修理では、傷んだ根元を切り取り、福岡県産と佐賀県産のクスノキで継ぎ足しています。袖柱は杉です。
クスノキが選ばれるのは、重く、腐りにくく、虫がつきにくいからです。海水に浸かり続ける場所では、この三つがそろっていることが欠かせません。
台風・地震・虫の被害と、それに耐えてきた記録
いまの大鳥居は、明治8年(1875年)から約150年、台風や地震に耐えてきました。平成3年(1991年)の台風19号では厳島神社が大きな被害を受けましたが、大鳥居は持ちこたえています。
一方で、海の中ならではの傷みもあります。フナクイムシやキクイムシによる食害、フジツボの付着、そしてシロアリと腐朽菌です。2019年からの大修理では、外からは分からなかった直径40〜50センチ、深さ約4メートルの空洞が主柱の中に見つかりました。
大鳥居の歴史|初代から現在の9代目まで
大鳥居は、平清盛の時代に建てられてから、倒れては建て直されることを繰り返してきました。長く「現在は8代目」とされてきましたが、令和の大修理に先立つ調査で、それまで知られていなかった建て替えが1回見つかり、いまは9代目とされています。
| 代 | 建てた年 | 誰が | その後 |
|---|---|---|---|
| 初代 | 仁安3年(1168年)頃 | 平清盛の援助で佐伯景弘が造営 | 扁額は表が小野道風、裏が弘法大師の筆と伝わる |
| 2代 | 1223〜1240年の間 | (記録のみ) | 令和の修理前の調査で判明。これで現在が9代目になった |
| 3代 | 弘安9年(1286年)10月 | — | 正中2年(1325年)6月に大風で倒壊。『一遍聖絵』に朱塗りの明神鳥居として描かれる |
| 4代 | 建徳2年/応安4年(1371年)4月 | 材木は佐伯区利松・廿日市市宮内などから | いつ倒れたかの記録なし |
| 5代 | 天文16年(1547年)11月 | 大内義隆 | この代から両部鳥居になったとされる |
| 6代 | 永禄4年(1561年)10月 | 毛利隆元ら毛利氏 | 享保元年(1716年)に自然倒壊(約155年) |
| 7代 | 元文4年(1739年)9月 | 浅野吉長(広島藩5代藩主) | 安永5年(1776年)7月に落雷で倒壊。しばらく鳥居の無い時期が続く |
| 8代 | 享和元年(1801年)3月 | 浅野斉賢(広島藩8代藩主) | 嘉永3年(1850年)8月の大風・高潮で大破。扁額は阿多田島付近まで流された |
| 9代(現在) | 明治8年(1875年)7月 | 小泉甚右衛門(小泉本店)らの斡旋 | 明治32年(1899年)重要文化財/2019〜2022年に令和の大修理 |
平清盛の創建と、見過ごされていた2代目
大鳥居が海の中に建てられたのは、平清盛が厳島神社を海上の社殿へと大きく造り替えた仁安3年(1168年)頃と考えられています。神の島である宮島の土地に直接建物を建てることを避ける信仰上の配慮と、瀬戸内海を行き来する船の目印という役割が重なっていました。清盛と厳島神社の関係は平清盛と厳島神社の関係にまとめています。
長く「2代目」とされてきたのは弘安9年(1286年)の再建でした。ところが、令和の修理に先立って過去の記録を調べ直したところ、仁治元年(1240年)の報告書に、すでに造り終えたものとして「大鳥居一基」と書かれているのが見つかりました。1223年から1240年のあいだに、もう一度建て替えがあったことになります。
両部鳥居になった1547年
天文16年(1547年)、大内義隆を施主として再建されたときから、いまのような袖柱を持つ両部鳥居の形になったと言われています。両部鳥居は神仏習合の影響を受けた形で、名前は密教の金剛界・胎蔵界の「両部」に由来するとされます。このとき義隆は、後奈良天皇の宸筆の扁額も神社に納めています。その扁額は宝物館に所蔵され、国の重要文化財です。
白木だった明治初頭と、朱色への塗り直し
明治のはじめ、神仏分離令の影響で、朱色は仏教色が強いとされ、大鳥居は色を塗らない白木の姿に改められました。明治32年(1899年)に国の重要文化財に指定され、明治42年(1909年)から約2年の大修理で、ふたたび朱色に塗り直されています。
令和の大修理(2019〜2022年)で分かったこと
大正14年(1925年)には柱の根元に鉄筋コンクリートを巻く補強がされましたが、昭和25年(1950年)の調べで、かえって海の虫の食害を進めていたことが分かり、根継ぎのやり直しが行われました。
令和元年(2019年)6月から令和4年(2022年)12月まで、約70年ぶりの大修理が行われました。シロアリの被害で空洞になっていた主柱の内部に部材をはめ込み、ステンレスのバンドと炭素繊維を巻いて補強。屋根の檜皮を葺き替え、紫外線で色あせにくい顔料とアクリル樹脂の塗料で塗り直したので、以前より赤みの強い朱色になっています。修理の技術の歴史は厳島神社の工事と修理・修復技術の歴史にまとめています。
平成3年(1991年)の台風被害をきっかけに、宮島町の有志が「宮島千年委員会」をつくり、将来の大鳥居に使うクスノキを育てています。厳島の国有林には、そのための「悠久の森」が設けられています。
扁額の文字・朱色・太陽と月の飾り

大鳥居には、表と裏で違う文字の扁額が掛かっています。沖側(北側)は「嚴嶋神社」、御本社側(南側)は「伊都岐島神社(いつきしまじんじゃ)」。伊都岐島大明神を祀っていたことから、昔は伊都岐島神社と呼ばれていた名残です。扁額は縦約2メートル、横約1.2メートルあります。
全体は朱色(丹塗)で、木口だけが黄土色です。朱は神聖さを表す色であると同時に、遠くからでも目立つ色で、表面の塗料(光明丹)には木を傷みから守るはたらきもあります。
金具には、東側に太陽、西側に月の印がかたどられています。厳島神社の灯籠にも同じ配置で太陽と月の印があり、陰陽道の考え方が反映されたものとされています。
なぜ海の上に鳥居があるのか
鳥居は、神の領域と人の暮らす世界を分ける境目です。宮島は島そのものが神とされ、土を持ち出すことや、島の中での出産・葬儀が避けられてきました。海の中に鳥居を立てることで、島を傷つけずに参拝の入口をつくったのです。かつての参拝者は船で大鳥居をくぐって社殿へ向かい、いまも管絃祭では御座船が大鳥居の下を通ります。
社殿そのものを海の上に建てた理由はなぜ厳島神社は海に建てられたのか、祀られている海の神は宗像三女神とは何かで解説しています。奈良の春日大社、福井の気比神宮とあわせて「日本三大鳥居」に数えられ、平成8年(1996年)には厳島神社とともに世界文化遺産の一部になりました。
よくある質問
大鳥居まで歩いて行けるのはいつですか?
潮位が100cm以下に下がる干潮の前後です。日によって時刻が2時間以上ずれるので、上の道具で行く日の時間帯を確かめてください。40cm以下まで下がる日は、砂浜が広く現れて歩きやすくなります。月ごとの表は厳島神社の潮見表にあります。
埋まっていないのに、本当に倒れないのですか?
埋まっていません。約60トンの自重と、屋根の中に詰めた約7トンの石、足元の松杭と花崗岩の敷石で立っています。明治8年(1875年)から約150年、台風や地震で倒れたことはありません。
大鳥居はいまも工事中ですか?
大鳥居の工事は2022年12月に終わり、足場はありません。神社の東回廊や五重塔などの工事は続いていますが、大鳥居とは別です。
いまの大鳥居は何代目ですか?
9代目です。明治8年(1875年)に建てられました。長く8代目とされていましたが、令和の修理に先立つ調査で、1223〜1240年のあいだにもう一度建て替えがあったことが分かりました。
なぜ朱色なのですか?
朱は神聖さを表す色で、海の上でも遠くから目立つため船の目印にもなりました。塗料には木を守るはたらきもあります。明治のはじめには一時、白木だった時期があります。
扁額には何と書かれていますか?
沖側(北側)に「嚴嶋神社」、御本社側(南側)に「伊都岐島神社」と書かれています。
両部鳥居になったのはいつですか?
天文16年(1547年)に大内義隆が再建したときからとされています。それまでは2本柱の明神鳥居でした。
参考文献・出典
- 一般社団法人宮島観光協会:大鳥居
- 嚴島神社公式サイト:工事状況及び計画
- 文化遺産オンライン:厳島神社大鳥居
- 増岡組:嚴島神社大鳥居 大規模修復工事
- 広島県観光連盟 Dive! Hiroshima:宮島・嚴島神社の大鳥居 改修工事終了
- 中国新聞デジタル:宮島・厳島神社の大鳥居、3年半ぶり雄姿
- nippon.com:令和の大修復で分かった「実は9代目」
- アース・ミュージアム元宇品:嚴島神社の大鳥居と宇品島の楠
- 県立広島大学宮島学センター「大鳥居のひみつ」第2版
- Wikipedia:厳島神社大鳥居